2023年6月1日木曜日

仲楽寺の六地蔵石幢 津市安濃町太田

安濃川の左岸に広がった田園は 南北に伸びる河岸段丘に遮られてしまって
田園と低い丘陵との境目に沿って集落が並んでいる
車で不用意に在所の小道に入り込んでしまうと 進退きわまってしまいそうで
離れた場所に車を捨てて しばらく在所の中を歩いていく
仲楽寺は明治時代に廃寺となって その旧境内地が会所になっている 
半丈六の本尊は平安時代後期の定朝様式の阿弥陀坐像で県の指定文化財になっている 
境内の奥に1メートルほどの高さの六角の石柱が立っている 
単性の六地蔵石幢である 
旧安濃町内に六地蔵石幢は四基が確認されていて 
草生仲之郷の恩仲寺にも ここの石幢によく似た単性の石幢が残っている 
伊勢から松阪や嬉野あたりに見られる単性石幢と同じ系統のものに見える 
この辺り神宮の御園が多かった地域なので そういった繋がりが関係しているかもしれない 
摩耗が進んでしまい 辛うじてこの角度から なんとか地蔵さんの姿が窺える 
ここ数年の間にも 像容はさらに判別しにくくなったようにおもえる
一見完品の様に見えるが 反花座を失っている様だ  
饅頭型の笠石や蓮座の様子から 室町末期から江戸前期のものだろうか


2023年3月1日水曜日

竜泉寺の六地蔵石幢 松阪市伊勢寺町

 

石仏を扱うブログが少なくなったような気がする
以前はたくさんの方が いろんなところで書いておられたが
小さなブームの波が 過ぎ去ったような感じだ
コロナ禍も こんなに長く続いてしまうと
それなりにもっと健康的なインドアの過ごし方が定着してきたということだろうか
いや こうしてブログを書いていることが 不健康というわけではないのだけど

社交的ではないので 他のブロガーの方と 言葉を交わせることは ほとんどないが
ホームページで相互リンクを貼らせてもらっている「赤目日記」さんのブログは
いつも欠かさず読んでいて 参考にさせてもらっている

石仏を扱う人には
とにかく歩いて 丹念に見てまわるタイプの人と
先に文献などで当たりをつけておいて そこに出かけて行って すぐ帰るというタイプが
あるようにおもうのだが ナマクラな私は後者です
しかも近くまでは車 またはバイク
だからコツコツ歩いて見てまわっている方には頭が上がりません

そんな事情から「赤目日記」さんのブログからも
ずいぶんたくさんの知らない場所を教えてもらった
今日の石幢も そのひとつだ
松阪市内なのに ぜんぜん知らなかったな

松阪市伊勢寺町の竜泉寺 山門の前に立つ六地蔵石幢
この辺り松阪の西部には このタイプの石幢が多い
美濃田 大阿坂 黒野…と 江戸末から明治の頃の石幢が残っている
小野にも昭和30年頃まではあったようだが これは重制でお隣の薬王寺の石幢と同じ仲間ではないかとおもうので ここ竜泉寺の石幢とはタイプが違うようだ
三重県内の六地蔵石幢 この石幢で68基をお詣りすることができた
ここからは先はコツコツ歩かんと無理かなあ 

2023年2月27日月曜日

旧観音寺の六地蔵石幢 松阪市大阿坂町

 

時々図書館にでかけて
古い市町村史や地誌を開いては石幢の手がかりを探す
先日「一志郡史」を調べていると
阿坂村大阿坂の観音寺の記事の中に
『六地蔵石幢一基 本寺の東北大杉の下にあり。』
とあるのをみつけた

地図を探してみたが 松阪市大阿坂町に観音寺というお寺は見当たらないし
郡史にある大阿坂四七という住所も存在しない
古い市町村史だと現状が大きく変わってしまっていることも少なくない
ただ 大阿坂の集落の外れに 大阿坂鳥岡観音集会所 がみつかった
この集会所は観音寺の廃寺跡に建てられた集会所ではないだろうか
暖かい一日だったので さっそく出動してみた
やはり寺院の跡地のようだ 旧境内を隅々まで見渡すが 石幢は置かれていない
鐘楼の跡だろうか 黄壇上に三体の観音さんがお祀りされている
中央奥に如意輪観音さん
左手に魚籃観音さん
右手に十一面観音さん
美しい観音さんらにお詣りを済ませて
ふたたび石幢の所在を考える
「一志郡史」には
『 本寺の東北大杉の下にあり 』とあったので
とにかく東北の方向に行ってみよう
ということで 阿射加神社の脇から緩い坂を下っていくと 
大阿坂の集落に入る入り口に「大阿阪農村公園」とある 小さな児童公園
庚申さんの祠が並んでいるのが見える
ここもお寺の境内地だった場所のようだ
入ってみると
庚申さんと並んで 石幢に刻まれた六地蔵さんがおいでになった
笠石を欠いた単性石幢
伊勢寺 美濃田 黒野と この辺りに多く見られるデザインの石幢だ

2023年2月22日水曜日

草生の六地蔵石幢 津市安濃町草生

県道脇の圃場の一角に 陰陽の石に挟まれた石塊
うっすらと肉彫りされた地蔵さんの姿が見える
初めて通りがかったとき この地蔵さん何なんやろ? とおもって
車を停めて アイフォンで写真を撮った
随分前のことになる

後に伊賀や伊勢で石幢を見るようになって
草生の地蔵さんは石幢なんや
と気がついた

安濃町史の中には
『安濃町内では、寺院境内に四基みられる程度…』
とあって この地蔵さんは石幢としては取り扱われていないようだ
在所では辻の庚申さんとして祀られているだろうか
重制石幢は完品では残りにくいので
町史などには載っていても 既に散逸してしまっているものも少なくない
美杉や伊勢のよく整った美しい石幢もよいが
傷ついて辛うじて残っている石幢には いっそうの愛着が湧く
そして こんなとこで 何をやってなん? と気になる
時間を巻き戻して この石幢がピカピカだった頃の風景を眺められるなら
そんな疑問も氷解するだろうか
そうか 地蔵さん たいへんやな おおきになあ
そんなふうに話しかけられたらよいなあとおもうのだ




 

2023年2月2日木曜日

鈴鹿市東江島町 北の端の地蔵堂の六体地蔵

少し前のブラタモリで浜名湖のウナギ養殖を取り上げた回があった 
番組の中では『浜堤 (ひんてい) 』ということばがでてきた 
波によって砂礫が陸に打ち上げられて 海岸線とほぼ平行につくられた自然の堤のことだが 二列〜三列と複数の堤が平行してできていくことが多く その堤の高いところには街道や鉄道が通り 低い湿地を鰻の養殖に利用したといった内容だったとおもう 
江島もそのような浜堤の上に引かれた伊勢街道の町である 
江島と聞くと よそ者のわたしなどは  あゝ体育館の辺りか とおもうのだが  実はそのあたりは近年急速に街地化したエリアだ  
明治に入った頃の地図で その頃に江島が属していた白子町の様子を眺めてみると 砂嘴の内側の白子港を中心に 伊勢街道に沿って南は寺家の辺りから北は塩浜街道との分岐までびっしりと民家が集まっている ここを昔は参宮の旅人が列をなして歩いたのだろう
そんな白子町の集落の北端が江島である 伊勢街道と塩浜街道とが分岐する追分に北の端の地蔵堂がある
現地案内板より引用
北の端の地蔵堂
『このお地蔵さんは、今より800年前の鎌倉時代(1192〜1333)に作られたもので、石像本体周囲に六體の菩薩が刻まれている。六體とは五欲の憂世に六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)に迷う衆生を救う六分身を表す。また、お地蔵さんはその昔江戸時代(1603〜1867)から北の端の地蔵さんと呼び、お守寺悟真寺古記録にも霊験あらたかで願うことかなわざるなし、遠近の信者が多く 毎年8月24日の縁日は善男善女の参詣が列をつくるなどと付記されている。  更にまた、江戸時代寺家、白子などから江戸方面へ型紙等の行商に出る人らは、この地蔵さんで無事を祈り、ここでせつない見送りをした。』 
現地案内板より引用
六体地蔵菩薩縁起 
『そもそも当六体地蔵尊は、鎌倉期の作と推定されます。 
土地の住民、遠近の人々及び その昔参宮道を行きかう人々の信仰をあつめ「六体地蔵大菩薩」とあがめ 又は「北の端の地蔵さん」として参詣し親しまれてまいりました。 
当地蔵尊は、もと原永にあったものを当時須原町に住む山形五郎という網元が当地に安置し、民心の平安と疫病退散を祈願しておりました。そして土地の人々も何時しか力を合わせ、日常のお供えも絶えずに無地平安な生活を送ってまいりました。 
後に 北本町伝右エ門の後家様が畑を寄付し、明治二十三年十一月八日、もとの須原町より移り御堂も整い結構なかまえとなりました。その後昭和七年三月、浄財を得て御堂を再建し いよいよその信仰盛んになってまいりました。 
地蔵菩薩を尊崇する当地の人々は 常に心安らぎ 昔の参宮街道を往来する人々の安全を祈り、自行代他皆が力を合わせそれらを親切にもてなし 地蔵菩薩には香華を捧げ 日常のお供えも絶えずお陰で悪い流行病もなく 平安無事な生活を送ってまいりました。 
悟真寺の古い記録にも「霊験あらたかにして願うこと叶わざるなし由って隣村は固より遠来の信者多く 毎年八月二十四日の御縁日は善男善女 参拝するもの睹をなせり」と記してあります。 
また当時 参宮の途次この地蔵菩薩の霊験を受けその「一分身」として帰って祀り 今もなお各地でお地蔵様をお祀りしております。(例 静岡県沼津市)これも当地蔵菩薩の功徳のあらわれであります。 
地蔵菩薩本願功徳経、十輪経、十王経 等諸経に説かれてある如く 当地蔵菩薩は 周囲に六体の菩薩を拝し すなわちこの五褥の悪世に六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道)に迷う衆生を救うべく六つの分身をあらわす六体地蔵菩薩であります。』 

これらのことは角川の地名辞典にも載っていて 
江島の近世の項に
『網元山形谷五郎の寄進をうけた地蔵が祀られていた』 
近代の項には
『字須原に祀られ信仰を集めた地蔵は、当町の地蔵として祀ることになり、明治23年現在地に移る。』とある

摩耗が激しく細かな点はわからないが やはり重制石幢のようだ
組み合わさった部材が当初のものかどうかもわからないが
二段重ねにされた笠石は上の小さい方に軒反りのような反りが見られる こちらが当初の笠石かもしれない
龕部の下に敷かれた石材は 僅かに蓮弁の縁のような線が見えている 中台が逆さに使われているだろうか
大きい方の笠石は 全くの別材でなければ基礎石か
宝珠と請花は見えないのでよくわからない
今でも「六体地蔵さん」と親しまれ 大切にお祀りされていることがわかる
石材の組み合わせなどは些細なことである
鈴鹿市内ではあまりお会いすることのない六地蔵石幢である 

2022年7月3日日曜日

松阪市嬉野薬王寺町 善福寺の六地蔵石幢

子供の頃は小野町の向こうは隣の町だとおもっていましたが
平成の合併で今では松阪市嬉野薬王寺町になりました
田畑に囲まれた低い丘陵に広がった集落の北の端にある善福寺
その山門の脇に 重制の六地蔵石幢が佇んでいます
一見して完品のように見えますが 龕部以外は別材でしょうか
竿石に元禄の文字が見えていますが年号は読みとることができません
龕部に彫られた地蔵さんらは 美しく整った姿で残されています
江戸中期からは少し遡ることができるのではないでしょうか
子供の頃に 母の自転車の後ろに乗せられている時に 自転車の車輪に足を挟んでしまったことがあります
すぐに近所の病院に行って診てもらったのですが
お医者さんに「これは一生傷になるな」と言われたことが 母は大変ショックだったようで
翌日には今度は父のバイクの後ろに乗せられて
こんどは「やこおじ」に連れていかれきました
嬉野薬王寺町にある病院のことで みんな「やこおじ」と呼んでいました
昭和初期のレトロで不思議な感じの建物で よその病院では治せない人でも治せるのかなあと
何か特別な患者さんになったような気分がしたのと
父母が妙に焦っているのが 申し訳ないような気分でした
冷たい金属の寝台に横になったのはレントゲンを撮ってもらったのでしょう
白い容器にピンク色の蓋がついたクリーム色の軟膏をもらって帰りました
特別な秘伝の薬を出してもらったのだとおもっていました
そんな病院もすぐそばにあります

2022年7月1日金曜日

桑名市多度町 古野の六角地蔵

多分この石幢が三重県の最北に残る石幢だろうとおもいます
桑名市多度町古野 県道と並行して延びる旧道に沿って南条という集落が広がっています
民家の連なりが切れたところに 立派な六角堂が見えてきました
中を覗き込んでみると 美しい六地蔵石幢がお祀りされています
御堂の前の案内板から引用させてもらいます
「六角地蔵」
御堂の中の地蔵尊は六角の花崗岩の各面に、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天の六つの善悪の業を救済する姿を薄肉彫りにしたものです。
あまり見られない貴重な御尊像で、村人はもちろん近在の人々に厚く信仰されています。
(伝説)
むかし、一人の行者が員弁郡中津原のススキの中で倒れていた地蔵を見つけ、それを背負って一之原、前山を通って古野の山まできたとき、「もうここで、結構だ」というお地蔵様の声がしたのでそこにおろしたということです。
また、あるとき古野の年貢米を、香取の土場から船で出そうとすると、おりからの突風で船が沈みそうになりました。そのときお地蔵様が「古野の米を運んだ船が沈むぞ」と大声で三回叫びました。その声を聞きつけて古野の若い衆が、その場にかけつけ、おかげで難を救うことができたといわれています。
さて、以前は前の山(肱江川の南)に安置されていましたが、明治時代になって現在の場所に移されました。
今でも八月二十四日の地蔵盆には、村の青年会や南条の人びとは、お供え物をし、盛大に供養しています。
なお、現在の建物は昭和五十二年三月に建て替えられました。
                 桑名市教育委員会

三重県のホームページにある「伝えたい三重のおはなし」の中でも 多度町の「六角地蔵」として紹介されています
花崗岩と紹介されていますが 閃緑岩のような青石に見えます
僧衣の裾を大きく開いた地蔵さんが 薄い肉彫りで彫られています
ごく小さな手をした地蔵さんらで それぞれに持物を持っているるのですが それらもとても小さく形作られているようです 
笠石は当初のものかとおもいますが 形がいびつで宝珠の形も少々へんです
枠取りの縁に荒々しいノミの痕が残っているところも不思議ですね

仲楽寺の六地蔵石幢 津市安濃町太田

安濃川の左岸に広がった田園は 南北に伸びる河岸段丘に遮られてしまって 田園と低い丘陵との境目に沿って集落が並んでいる 車で不用意に在所の小道に入り込んでしまうと 進退きわまってしまいそうで 離れた場所に車を捨てて しばらく在所の中を歩いていく 仲楽寺は明治時代に廃寺となって その...